・フォンダルシアの成立
フォンダルシア共和国の起源は、古代末期の混乱の最中にフォンダルシア島に移住した北サッフィア人の集落による。
伝承によれば、島に残る司教にして初代元首のパオルッチョ・デ・フォンダルシアが彼らを指導して4世紀に都市が成立したとされる。しかし実際には、それから少なくとも100年以上の間は小さな漁村の様相を呈し、魚と塩の貿易に依存する貧しい集落であったと推測される。
7世紀には「大小の運河が道の代わりに張り巡らされた、独特な構造の村」としてフォンダルシアの様子が、また飢饉の際にフォリアから各地への食糧輸送を担っていたというフォンダルシア人の事情が「北サッフィア記(フォリア大司教の命で編纂された歴史書)」に記述されている。
フォンダルシアは、7世紀中には確実に初代の元首を選出しており、この頃からサッフィアの都市国家の一つに数えられるようになる。
「フォンダルシア」の語源
フォンダルシアの都市の基礎は6世紀、ラグーンに無数の杭を打ち込んで石材を重ね、長い時間をかけて作られていった。
フォンダルシア人がその基礎を建てていた最中のある年、食料援助を求めてフォリア大司教国に送られた彼らの代表は、そこでラグーンに建てられたという彼らの街の名を尋ねられた。
彼は困り果てた。まだ街どころか家の一軒も建てられてはいないのだ。
そこで「まだ、我々が建てているそれは、街と呼ぶにはほど遠いものです。ただ基礎(Fondalmentò/フォンダルメント、当時のフォンダルシア方言の単語)があるのみで…」と言葉を濁して答えたところ、「Fondalmentò」がその街の名前として誤解されてしまった。
彼が食料援助の約束と共に持ち帰ったこの逸話は、現地の住民の間で話題となった。
そして彼らが「フォンダルメント」をもじって自分たちの集落を「フォンダルシア」と呼び始めたのが、この都市の名の起源であると言われている。
・中世フォンダルシア
19世紀を代表するフォンダルシアの歴史家ジョルジョ・ドメニコは、その著書「フォンダルシア史」の中で中世を「697年の初代ドージェの選出から、16世紀のゲブライ同盟戦争に及ぶまでの時代」と定義している。
フォンダルシアは海上貿易で富を蓄え、貿易の規模の拡大に伴って海軍力を増し、8世紀以降はフォンダルシア諸島を次々にその影響下に収めていった。
やがて9世紀にスッチェロ島(フォンダルシア諸島に隣接する大きな島)全域の貿易に影響力を持つヴァドゥア市と対立するようになったフォンダルシアは、選挙に伴う政治闘争とフォリア大司教との対立に乗じてスッチェロ島に軍を進め、ヴァドゥア市を完全に破壊してその影響力を消滅させた。
フォンダルシアは以後積極的な外交を行うようになり、海軍力を背景に各都市に対し貿易への協力を強要して勢力を拡大していった。
そうした諸都市はフォンダルシアの経済的繁栄の恩恵を受けて発展する一方、政治的にも徐々にフォンダルシアへ統合されていき、11世紀にはフォンダルシア諸島全域が共和国の中核的な領土であるとみなされるようになった。
10世紀ごろからはフォンダルシア商人がサッフィア地域やそれ以南での貿易に広く参加し、また政府がそれを積極的に支援することで、共和国はサッフィア付近での貿易全般において極めて大きな影響力を持った。
フォンダルシアはまた、北方のスロシェーテ王国との関係を深め、海軍力を提供し貿易に協力する一方、彼らの軍事力を後ろ盾にしてサッフィア各地に貿易拠点を建設した。
四十人委員会の時代
これらの拠点を通じてフォンダルシア領には多くの移民が流入し、経済的繁栄を背景に人口も増大した。
国内の不安定化を懸念した政府はフォンダルシア人の統合政策と中央集権化を進める一方、減税や社会保障的制度の導入を進めた。
なお、このとき臨時で設置されたのが四十人委員会であり、独裁的な権限を持って統治改革を進めたため「四十人委員会の時代」とも呼ばれる体制が作られたが、のちドージェであるトンマーゾ・モチェニーゴにより「ドージェに対する越権行為」との罪状で委員のほとんどが処刑されたことにより、この体制は終わりを迎えた。
・ゲブライ同盟戦争とテッラフェルマの獲得
フォンダルシアが各地に獲得していた貿易拠点となる都市の数々は、15世紀ごろまでには「スタート・ダ・マール」と呼ばれるようになっており、海上貿易の拠点となっていた。
しかしこの時代から、サッフィアの各都市国家はその支配地域を拡大し、領域国家として各地方に割拠するようになった。
現代まで続くメイラニアやマルケ、そしてそれ以前より存在するフォリアやマルギポリ、ツェナなどの有力国家は、16世紀までに勢力を大きく増すにつれ、しばしばそうしたフォンダルシアの領土を狙い、貿易上の権益を取り返そうと試みた。
対するフォンダルシアは、失いつつある(それまで軍事的圧力により確保してきた)陸上交易での優位を、領土の拡大により確固たるものとするとともに、農業生産力のある土地を領有することに関心を持ち始めた。
フォンダルシア人が彼らの持つ各都市で要塞の建設・強化を始めると、脅威であるとしてフォリア大司教により中止を求められた。
フォンダルシア政府は言を左右にしてその要求への回答を先延ばしにし続けたが、フォリア大司教はすぐにゲブライで反フォンダルシアの同盟を結成してその領土の分割を約束し、ラル王国(フォンダルシアの属国)の要塞へ攻撃を開始、ここにゲブライ同盟戦争が勃発した。
ゲブライ同盟に対して数的に劣勢であったが、洗練された火器を大規模に用いたフォンダルシア軍は、各所で同盟軍を破った。
特に名将アンドロ・コッレオーニが率いた軍はフォリア領の小村・カラビアニチーノ付近での戦いで5倍以上にもなるフォリア・メイラニアの連合軍を打ち破り、これはフォンダルシアの戦勝を決定付けた。
ヴィエーゾ会議においてこの戦争は決着し、フォンダルシア商人は各種の商業特権を得るとともに、それを保証する名目で多くの領土がフォンダルシアへ割譲された。
これらの領土はテッラフェルマと呼ばれ、以降現在までフォンダルシア領であり続けている。
・「平穏なる共和国」
続く17世紀、サッフィア全域では宗教改革の波が吹き荒れた。
一方で極めて国内の安定していたフォンダルシアは各国の政治に介入し、注意深い外交を展開して自国に対抗しうる強国の成立を防いだ。
戦争を回避しつつ、混乱に巻き込まれていくサッフィアに反してフォンダルシアは繁栄したことから、フォンダルシア人は「平穏なる共和国」としばしば自身の国を誇っていたという。
一方当時のフォンダルシアは、強大化した諸外国に対してもはや優位と言える立場になかったため、しばしば外交上妥協的な姿勢をとり、被った損害をサッフィアにおけるフォンダルシアの権益拡大で賄っていたといえる状況にあった。
このような態度はフォンダルシア人とサッフィア人の対立を生み出し、両民族のナショナリズムの芽生えに繋がった。